もちくすブログ ーお外で遊ぼうー

大人になれないオジサンの雑記帳。キャンプメインで、ハイキング、釣り、バイクなど奥様に怯えながら外で遊んでいます。

なぜ、おっさんは一人で外へ行きたくなるのか。焦燥感と自由と、まだ何者かでありたい話

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こんにちは。

もちくすです。

 

最近、ふと思うことがあります。

なぜ自分は、こんなに一人で外へ行きたくなるのか。

 

自転車で知らない道を走ったり、山の中でコーヒーを淹れたり、ハンモックでぼんやり揺られたり、誰に見せるわけでもない道具をいじったり。

 

大冒険をしているわけではありません。

 

エベレストに登るわけでもなければ、無人島でサバイバルするわけでもない。

せいぜい近場の山に行って、湯を沸かして、コーヒーを飲んで、寝るだけです。

 

でも、それがやたらと満たされる。

 

逆に、普段の生活では何かが足りないような気がする。

仕事もある。家もある。ご飯も食べられる。趣味もある。

 

なのに、なぜか焦る。

このままでいいのか。

 

もっと何かしないといけないんじゃないか。

自分は結局、何者にもなれていないんじゃないか。

 

そんなことをふと考える夜が増えました。

 

今回は、外遊びの話のようでいて、たぶん外遊びだけの話ではありません。

 

同年代の愛すべきおっさん達に向けた、ちょっと長めの湿度高めの記事です。

 

でも大丈夫です。

最後はちゃんと外に出ます。室内で終わるとカビますので。

 

 

なぜ一人遊びに惹かれるのか

私は大勢でワイワイすること自体は嫌いではありません。

ただ、強く惹かれるのはやっぱり一人遊びです。

 

一人で自転車に乗る。

一人で山に入る。

一人でキャンプする。

一人でコーヒーを飲む。

 

字面だけ見ると、少し寂しい人みたいです。

いや、否定はしません。

 

寂しさも少しはあります。おっさんのソロ活動には、だいたい少量の哀愁が含まれています。カップ麺の粉末スープくらいには入っています。

 

でも、一人でいる時間には、他人に合わせなくていい自由があります。

 

どこで休むか。

何を食べるか。

どの道を行くか。

引き返すか。

もう少し進むか。

ただ座っているだけにするか。

 

全部、自分で決められる。

普段の生活では、そうはいきません。

 

会社では会社の都合があります。

家庭では家庭の事情があります。

 

社会には空気があります。読めない空気を一生懸命読まないといけません。

年齢相応という、誰が決めたのかわからない圧もあります。

 

もちろん、それらを全部否定したいわけではありません。

 

でも、ずっと他人の都合や評価の中にいると、自分の輪郭が薄くなっていく感じがします。

 

その点、一人遊びはとてもシンプルです。

 

疲れたら休む。

腹が減ったら食べる。

寒ければ着る。

眠ければ寝る。

行きたければ行く。

帰りたければ帰る。

 

なんというか、人間に戻る感じがあります。

 

会社員でもなく、父親でもなく、夫でもなく、役職でもなく、年齢でもなく、ただの自分。

 

一人遊びに惹かれるのは、孤独になりたいからではなく、自分の操縦席に戻りたいからなのかもしれません。

 

なぜアウトドアに惹かれるのか

アウトドアの何がいいのかと聞かれると、説明が難しいです。

 

景色がきれい。

空気がいい。

焚き火が楽しい。

コーヒーがうまい。

ギアを使うのが楽しい。

 

もちろん全部あります。

でも、たぶんそれだけではありません。

 

外にいると、自分が少し単純になります。

暑い。寒い。腹が減った。眠い。疲れた。気持ちいい。

身体の感覚が戻ってくる。

 

 

普段は頭ばかり使っています。

 

仕事のこと。

お金のこと。

将来のこと。

評価のこと。

人間関係のこと。


あれをしないと。これもやらないと。

 

頭の中が常にブラウザのタブ開きすぎ状態です。

 

しかも、さっき見てたタブがどこに行ったか判らない。
あれ本当に腹立ちます。

 

アウトドアに行くと、そのタブが少し閉じます。

 

チャリを漕ぐ。

湯を沸かす。

飯を食う。

寝床を作る。

川に入る。

風を見る。

 

やることはシンプルで原始的です。

でも、その原始的な作業が妙に気持ちいい。

 

便利な生活の中で見えなくなっていた「自分で生きている感覚」が、少しだけ戻ってくるのだと思います。

 

アウトドアは非日常と言われます。

でも最近私にとっては、むしろ逆かと思い始めてます。

 

普段の生活のほうが、どこか作られた日常で、外にいる時のほうが、本来の自分に近い気がする。

 

山の中で飲むコーヒーがうまいのは、豆が高級だからではありません。

たぶん、あの一杯には、自由と疲労と少しの自己肯定感が溶けています。

 

「冒険」や「自由」という言葉に反応してしまう

いい歳をして「冒険」という言葉に反応するのは、少し気恥ずかしさがあります。

冒険って言うと、なんだか少年漫画みたいです。

 

剣を持って旅立つわけでもない。

仲間が増えるわけでもない。

魔王を倒す予定もありません。

 

倒すとしたら、せいぜいちょっとした坂道と買いすぎたおやつ位です。

 

でも、それでも「冒険」という言葉には反応してしまいます。

 

なぜか。

 

たぶん、冒険とは距離や危険のことではなく、自分で選んで、少し未知の方へ進むことだからです。

 

知らない道を走る。

行ったことのないキャンプ場へ行く。

いつもより少ない荷物で出かける。

自作のアルコールストーブを試す。

地図を見ながら、ここ行けるんちゃうかと考える。



そういう小さな未知に触れると、まだ自分の人生が閉じていない感じがします。

そして「自由」という言葉にも反応します。

 

自由。

 

いい言葉です。

ただ、自由は意外と重い言葉でもあります。

 

自由とは、何でもできることではなく、自分で選んだと言えることなのだと思います。

会社に行くことも、家族を守ることも、生活のために働くことも、全部現実として大事です。

 

でも、その中で少しでも「自分で選んでいる」と思える時間がないと、人はしんどくなる。

外遊びは、私にとってその小さな自由です。

 

誰に命令されたわけでもない。

誰に評価されるためでもない。

 

自分で選んで、自分で準備して、自分で出かける。

それだけのことなのに、少し救われる。

 

たぶん私は、自由そのものが欲しいというより、自分の人生を自分で選んでいる感覚が欲しいのだと思います。

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なぜ会社や評価制度に疲れるのか

会社という場所は、ありがたい場所でもあります。

 

給料をもらえる。

社会保険もある。

仕事を通して経験も積める。

人とのつながりもある。

 

だから簡単に「会社なんてくだらんよ」とは言えません。

 

お金は大事です。


きれいごとだけで飯は炊けません。飯盒にも米が必要です。

ただ、会社や評価制度に疲れることがあります。

 

なぜ疲れるのか。

たぶん、会社では自分の価値が、他人の物差しで測られるからです。

 

役職、等級、評価、給与、異動、成果、期待、序列、人事。

あかん、書いてて眩暈してきた。

 

もちろん組織には必要なものです。

でも、それがずっと続くと、いつの間にか自分でも自分をその物差しで見始めてしまいます。

 

自分は評価されているのか。

必要とされているのか。

まだ価値があるのか。

このまま下がっていくのではないか。

もう伸びしろがないと思われているのではないか。

 

そういう問いが、じわじわ効いてきます。

 

若い頃は、まだ先があると思えました。

でも40~50代になると、残り時間を意識します。

 

あと何年働くのか。あと何回、挑戦できるのか。

自分は何を残せるのか。

 

そこで会社の評価だけに自分の価値を預けていると、かなり苦しくなる。

 

評価されれば安心する。

評価されなければ焦る。

認められなければ腹が立つ。

軽く扱われると、自分の人生まで軽く扱われたような気になる。

 

これは承認欲求と言えばそうかもしれません。

でも、単に褒められたいだけではないと思います。

 

本当は、自分の積み上げてきたものを、なかったことにされたくないのです。

 

何者にもなれていない気がする

これが一番やっかいです。

何か知らんが焦っている。残り時間が気になる。

 

ある程度の年齢になると、ふと気づく瞬間があります。

あれ、自分は結局、何者になったんだろう。

 

もちろん、まったく何もしてこなかったわけではありません。

 

仕事もしてきた。

家族のこともやってきた。

趣味もある。

それなりに経験もある。

 

でも、心のどこかで思うわけです。

 

自分の人生は、これでよかったのか。

もっと何かできたんじゃないか。

もっと違う形があったんじゃないか。

自分にしかできないことがあったんじゃないか。

 

この感覚は、なかなか人に言いにくいです。

 

言うと、青臭く聞こえる。

今さら何言ってるのと思われそう。家族も仕事もあるのに贅沢だと言われそう。

 

でも、あると思うんです。

同年代の男性には、けっこうあると思います。

 

残りの人生がうっすら見え始めた時に、「自分は何者にもなれていないのではないか」
という感覚が、静かに顔を出す。

 

これが焦燥感の正体のひとつかもしれません。

 

もっと稼がないと。

もっと発信しないと。

もっと何か始めないと。

もっと成果を出さないと。

もっと、もっと、もっと、もっと。

 

そう思うけれど、本当に欲しいのはお金だけではない。

たぶん欲しいのは、自分の人生に手応えがあることなのだと思います。

 

外遊びは、何者かになるためではなく、自分を取り戻す時間

では、外遊びをすれば何者かになれるのか。

 

残念ながら、近場のキャンプ場でコーヒーを飲んでも、翌日いきなり人生が覚醒することはありません。

 

焚き火を見つめても、会社の評価は上がりません。

ハンモックで寝ても、収入は増えません。

自転車で山を越えても、老後資金は積み上がりません。

 

現実はなかなか手厳しいです。

テレビドラマみたいに、すべては美しく解決しません。

 

でも、外遊びには別の効果があります。

 

自分を取り戻せる。

他人の評価ではなく、自分の感覚で動ける。

結果ではなく、過程を楽しめる。


肩書きではなく、身体ひとつでそこにいられる。

お金や役職ではなく、「今日、自分で選んだ」という感覚が残る。

 

これはかなり大きいです。

 

一人で外へ出ると、誰も褒めてくれません。

でも、自分では少し思います。

今日の俺、ちょっとカッコよくね?

 

この感覚が大事なのだと思います。

 

何者かになるために外へ行くのではなく、何者でもない自分に戻るために外へ行く。

 

そして不思議なことに、何者でもない自分に戻れた時、少しだけ「自分はこういう人間だ」と思えたりします。

 

知らない道を走る人間。

軽い道具で遊ぶ人間。

山でコーヒーを淹れる人間。

自分で工夫する人間。

まだ冒険したがっている人間。

 

それでいいんじゃないかと思うのです。

 

焚き火、コーヒー、知らない道。それだけで少し戻ってくる

大げさなことはしなくていい。

 

何百キロも走らなくてもいい。

高いギアを買わなくてもいい。

映えるキャンプをしなくてもいい。

すごい山に登らなくてもいい。

 

近場でいい。

短時間でいい。

安い道具でもいい。


むしろ安い道具を工夫して使うくらいがちょうどいい。

 

 

自転車で少し遠回りする。

川沿いでコーヒーを飲む。

小さなストーブで湯を沸かす。

木の下で昼寝する。


行ったことのない道を一本だけ走る。

 

それだけで、少し戻ってきます。

 

何に戻るのか。

たぶん、自分に戻るのです。

 

会社で削られた自分。

評価に揺れた自分。

お金の不安に焦った自分。

何者にもなれていない気がしていた自分。

 

そういう自分が、外で少し呼吸を取り戻す。

 

人生の問題は消えません。

でも、問題に飲み込まれている自分から、問題を少し離れて見られる自分に戻れる。

 

これはかなり大きい。

 

焚き火は悩みを解決してくれません。

でも、悩んでいる自分を少し黙らせてくれます。

 

コーヒーも人生を変えてはくれません。

でも、「まあ、もう少しやってみるか」と思わせてくれることがあります。

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おわりに:まだまだ冒険してもいい

50代が近づいたり、あるいは過ぎたりすると、人生の残り時間を考えることが増えます。

 

若い頃のように、何にでもなれるとは思えない。

 

体力も落ちる。

仕事での立ち位置も見えてくる。

家族やお金や将来のことも重くなる。

 

その中で、「自分は結局、何者にもなれなかったのではないか」と思うことがある。

 

でも最近、少し思います。

何者かになるというのは、立派な肩書きを手に入れることだけではないのかもしれません。

 

自分が大事にしたい方向へ、まだ少しずつ進んでいること。

それも、十分に「何者か」なのではないか。

 

私の場合、それはたぶん外遊びです。

 

一人で知らない道へ行く。

軽い道具で工夫する。

自分で湯を沸かしてコーヒーを飲む。

小さな冒険を続ける。

それを文章や動画にして残す。

 

派手ではありません。

誰かから見れば、ただのおっさんの休日です。

 

でも、自分にとっては大事な時間です。

 

会社の評価とは別の場所で、

お金の不安とは別の場所で、

誰かの物差しとは別の場所で、

自分が自分でいられる時間。

 

たぶん、私たちはまだ冒険してもいい。

 

赤い服を着た、三倍のスピードで動くあのパイセンも言ってます。

「まだだ、まだ終わらんよ」

 

大きな冒険でなくてもいい。

人生を変えるような挑戦でなくてもいい。

近場の山でも、川沿いの道でも、キャンプ場の片隅でもいい。

 

少しだけ未知の方へ進む。

 

その時、自分の中の焦燥感が少しだけ静かになるなら、それはもう十分に意味のある外遊びだと思います。

 

というわけで、また一人で外へ行こうと思います。

何者かになるためではなく、何者でもない自分に戻るために。

 

そして、できればその先で、
「まあ、今日の俺は悪くないな」
と思うために。

 

ではまた。

お外でお会いしましょう!

 


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